昔、中学校の修学旅行でライオンキングの劇を観たとき、何も感じませんでした。ただの動物の話だと思ったし、旅の疲れもあり途中で寝落ちした記憶があります。
でも、大人になって久しぶりに観てみたら違いました。親を失った喪失感、責任から逃げる弱さ、受け継ぐ覚悟。全部、自分の人生に重なって感動しました。
同じ演劇を観ているのに、どうしてこんなにも感じ方が違うのか?
単に大人になったからだけなのか?
おそらくそれは、自分の受け取る力が変わったからなのだと思う。今回はそんな「受け取り手としての成長」について考えてみました。
受け取る側の習熟度
10代の頃に稲盛和夫さんの講演を聞いたことがあります。
学校行事の一環で講演会を聞いたのですが、当時の私はまったく内容が理解できませんでした。「働くとは」「人生とは」といった話は、どこか遠い世界の話に聞こえて、ピンとこなかった。
でも大人になってから、彼の著書を読んでみると、昔と同じ言葉が、胸に突き刺さってくる。特に「動機善なりや、私心なかりしか」という言葉は、仕事で悩んでいたタイミングだったこともあり、多くの共感がありました。
同じ人、同じ言葉、でも全然捉え方が違う。
つまり、響かなかったのは言葉が悪いんじゃなく、こっちの準備ができてなかっただけなんだと理解できました。
同じ言葉でも刺さるタイミングが違う
世の中には「一生モノの言葉」ってのがある。でもそれは、出会った瞬間にすぐ刺さるわけじゃない。
むしろ、何度も聞いてきた言葉が、ある日突然意味を持つ瞬間がやってきます。
親のありがたみ
失敗からの学び
誰かを許すということ
仕事における誇り
子どもの頃には意味が分からなかったフレーズが、年齢や経験、挫折や責任を経てようやく実感に変わっていく。
学びというのは、新しい情報をインプットすることじゃない。昔から知っていた言葉が、自分の中で再起動することでもあります。
だから何かが刺さらないからといって、それを否定する必要はなく、まだ自分の順番が来ていないだけと捉えるといいのかもしれません。
学びは取りに行く力で決まる
いい授業を受けたから、有名な人の講演を聞いたから、ベストセラーを読んだから。
それだけでは、人は何も変わりません。
結局のところ、学びが成立するかどうかは受け取り手側の解像度で決まります。
これは情報が溢れている今だからこそ重要で、「いい話」は世の中に山ほどある。
でもそれを拾いにいける人と、素通りする人では、10年後に大きな差がつきます。
つまり、学びとは「与えられるもの」じゃなく「取りにいくもの」。
しかも、受け取れる器が整っていないと、どれだけ質の高い言葉でもすり抜けていく。
だから私たちは、インプットの質ばかり気にする前に、もっと「自分の受信力」を高めることに目を向けたほうがいいのかもしれません。
それでは、また。