このブログを開始するにあたり、私が一番最初に書きたかったのが「社会の輪郭」と呼んでいるものです。大体のニュアンスは伝わると思いますが、"大人になって初めて分かったこと"、"社会に出てからの気付き"、"世の中"といったような意味です。
その中でも私は「小さい頃から知っていれば良かったこと」と定義しています。
私は社会人になりたての頃、社会のことを全く理解しておらず、酷く苦労をした経験があります。そういう人は私以外にも多くいると思います。
日本には「若い時の苦労は買ってでもしろ」という言葉がありますが、間違いではありません。若い頃のハードワークや努力は30代・40代になった時に大きな差を生みます。これは事実です。しかしながら、多くの人が社会に出て苦労をするのは、日本の教育制度に大きな問題があるからだと私は考えています。
日本の教育は義務教育と呼ばれる傘のもと、固定化されたカリキュラムをこなし、思考よりも暗記中心の試験を重んじ、社会と殆ど接点を持たない学校独自のルールで進められるのが実態です。
さらに学校制度の基礎が作られた明治期の思想が色濃く残っており、全員が同じで全員が平等で、誰一人取り残さないといったような護送船団的な思想が見え隠れします。
それはそれで良いのかもしれませんが、実際の社会は有象無象で埋め尽くされていて、欲望や理不尽で満ち溢れています。上を見ても下を見てもキリがなく、弱肉強食が常識で自由や平等とは決して言えない混沌とした姿をしています。
今の学校では本当の意味での社会の実態は一切教えられる事はありません。
また学校という集団は、同じ地域に住んでいて、同程度の学力を持った、同じ年齢の子ども達の集合体です。進学校は進学校で、受験というゲームに勝つために集まった子ども達の集まりで、一見優秀そうに見えますが、私にはとても画一的な集団にしか見えません。
このような状況で教育を受けて「社会の輪郭」が分かるはずもありません。だから日本では社会人なったのに社会のことが全く分からない人が大量に発生しているのだと思います。
しかしこの傾向は近代特有のもので、歴史を遡ってみると昔は超実践的教育をしていたように思います。
日本では元服という風習が奈良時代から存在していて、わずか15歳で立派な大人として扱われてきました。わずか15歳で家を出て、社会の構成員となって暮らしていたのです。
また、鎌倉時代には丁稚奉公と呼ばれる商人特有の文化が生まれます。10歳頃から社会に出て働き、読み書きそろばんを教えられ、商売のイロハを叩き込まれていました。
農家に生まれた場合は若くから"働き手"として家の手伝いを強いられていました。農民が子沢山だったのは働き手を確保する為だったという説があるくらいです。
昔の日本の教育は今とは全く違い、子どもを社会に放り出し超実践的な教育を施していたのです。時代が全く違うので単純比較はできませんが、私の結論を述べると「現在の日本教育は大人への成熟スピードを遅らせるもの」ではないかと感じています。
もっと早い段階で社会に触れ、社会から学び、社会に参画することこそが人を成長させる一番の近道です。机上の空論という言葉があるように、いくら机の上でも学んでも社会という実戦で使えるようにはならないのです。
大学進学や浪人をピーターパンシンドロームだのモラトリアムだのと言って、社会に出ることを先延ばしする風習には危機感すら覚えます。
これらを証明するように、多くの偉人や実業家は学校での学びを途中で捨て、社会にいち早く進出しています。Appleの創業者のスティーブジョブズ、相方のウォズニアック、Metaのザッカーバーグ、Microsoftのビルゲイツ、日本では堀江貴文さん、GMO熊谷さんなど数えきれません。
彼らは学校での学びを早々に捨て、社会に飛び出して成功しいる人達です。
そして最近では、将棋の藤井壮太さんも高校を辞めています。おそらく多くの大人は「卒業してからでもいいんじゃないか」と思ったはずですが、彼にとって学校で授業を受けて卒業することが、将棋人生に置いて意味を成さないと判断したのでしょう。
良かれと思って作られた教育制度ですが、時代の変化に伴いそれが足枷にすらなってしまうことを覚えておかなくてはなりません。
このブログを読んでいる多くの若い人へ、この言葉で締めくくります。
「早く社会に出て輪郭を掴め」